イスタンブール残像:その(5)
オルハン・パムクは『イスタンブール 思い出とこの町』で「ヒュズン」についてこう語る。「わたしの出発点は、曇った窓を見ているとき、ある子どもの感じる感情であった。今ヒュズンをメランコリと区別しよう。一人の人間の感じるメランコリに対してではなく、何百万もの人間がともに感じるあの暗い感情、ヒュズンに近づこうとしている。町全体の、イスタンブールのヒュズンを語ろうとしている」
オルハン・パムクは『イスタンブール 思い出とこの町』で「ヒュズン」についてこう語る。「わたしの出発点は、曇った窓を見ているとき、ある子どもの感じる感情であった。今ヒュズンをメランコリと区別しよう。一人の人間の感じるメランコリに対してではなく、何百万もの人間がともに感じるあの暗い感情、ヒュズンに近づこうとしている。町全体の、イスタンブールのヒュズンを語ろうとしている」
さてここで、(1)に書いたボスポラス海峡のあちこちにはためいていた巨大な赤いトルコの国旗について考えたい。私が察するに、あれは現在のエルドアン大統領の方針ではないか。愛国心を高めるために、国の機関のあちこちに立てているとしか思えない。
先日引用した小笠原弘幸著『オスマン帝国』の中で驚くべきは、「36代に及ぶ歴代君主のうち、トルコ系の生母を持った君主は初期の数例に過ぎない」という部分ではないか。普通なら、外国人の母親で大丈夫なのかと思う。
オルハン・パムク『イスタンブール』や小笠原弘幸『ケマル・アタチュルク』を読んで個人的に一番驚いたのは、600年間続いたオスマン帝国が、意外に異教徒や外国人に開かれたコスモポリタンな国だったということだ。
もう帰国して1週間が過ぎたのに、どうも頭の中でイスタンブールが巡っている。一番印象に残っているイメージは、ボスポラス海峡巡りの観光船から何本か見えた相当に大きな赤いトルコの国旗だった。
今回の旅行で気づいたことをいくつか書き留めておきたい。考えてみたら、これまでパリに行くと必ず会うのは評論家のジャン・ドゥーシェさんと女優のフランソワーズ・アルヌールさんだったが、もうこの世にいない。お二人とも2019年9月には会ったのに、ドゥーシェさんはその11月に、アルヌールさんは2021年7月に亡くなった。
既に帰国したけれど、イスタンブールについてはもっと書いておきたい。トルコという国自体、日本では一般にはあまり知られていない。私もたまにトルコ映画の新作を見るくらいで、あまり考えたことがなかった。
さて、パリではほかにポンピドゥー・センターやルーヴル美術館、証券取引所跡の美術館、シネマテーク・フランセーズの常設展などを見たが、それは後日書く。さて忘れないうちに書いておきたいのは、その後に行ったイスタンブールの話である。
5年前に海外に行った時は、パリの空港に着くとすぐにSIMカードを買った。そしてSIMカードを入れ替える。これが細いピンを使ってなかなか緊張する作業だった。それが今回はeSIMというものがあることを知った。
今回パリに着いて、最初に行ったのはなぜかパリのはずれにある「国際大学都市」のアメリカ館。1984年9月から翌年7月まで住んだ学生寮だが、なぜかその後一度も行っていない。最近DVDで見たエリック・ロメールの短編『パリのナジャ』で国際大学都市が出てきて、急に行きたいと思った。
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